あかね噺の根底に流れる大切なこと
中学生の頃からイイノホールで落語会を観に行っていたし、高校生の時は往復葉書で応募して笑点の収録を後楽園ホールに観に行ったり。末廣亭にも池袋演芸場にも寄席を楽しみに行っていたこともあります。考えてみると落語に親しむようになって40年以上経っています。古谷三敏さんの「寄席芸人伝」、雲田はるこさんによる昭和元禄落語心中といった寄席・落語をテーマにしたマンガも大好きです。
令和の今、少年ジャンプで連載中の『あかね噺』という落語マンガがあります。落語家を題材にした作品で、主人公は阿良川あかね。父親の阿良川志ん太は、真打昇進試験の場で当代一の落語家・阿良川一生に破門を言い渡され、噺家を辞めさせられました。あかねは、その一生を納得させる真打になることを目標に、修業を続けています。
最近読んだ場面で、そのあかねが、一生と差し向かいで話す場面がありました。父を破門にした宿敵と、当の娘が同じテーブルに着いています。緊張感のある絵の中で、一生は、ワインを片手にこんなことを言います。

所詮、人は自ら掴んだ本質しか肚には落ちないのだ
"そういうもの"と鵜呑みにして、分かった気になり本質を逸する
人は思考を放棄する
とある落語会を前に一生があかねに対してつきつけた課題はテーマが曖昧で、それをあかねが悩みに悩んだ上で咀嚼し、一生の前で演じた噺で解釈を披露してみせました。それについての一生の評がこれです。芸に厳しい一生が人を褒めるシーンはほとんど描かれておらず、とても貴重なシーンでした。
これ自分のいまの仕事の進め方に、ぴったり刺さるところがあったんです。
「肚に落ちる」と「肚に落ちない」の境目
ライターと編集の仕事をしていると、AIをどう使うかという話題は避けて通れません。原稿の下書き、構成案、リサーチの整理、メールのドラフト。何にでもAIは入り込めます。実際、私の作業時間の少なくない部分は、いまやAIとの共同作業に置き換わっています。
ただ、自分の中で、AIと一緒にやる作業がふたつに分かれていることに、最近気づきました。
ひとつは、肚に落ちている作業。 もうひとつは、肚に落ちないままやっている作業。
肚に落ちている作業の代表は、生成AIへの指示として作るスキル(SKILL)設計です。生成AIに「こういう日本語にしてほしい」と頼むときの指示書を、私は自分で組み立てています。AIっぽい日本語の癖を24個くらい列挙して、ひとつずつ「これは消す」「これはこう書き換える」と決めていきます。その指示書を、AIに読み込ませて使うわけです。
この作業は、間違いなく肚に落ちています。なぜなら、「AIっぽい日本語」とは何かを、自分の目と耳で何百本も読んで、自分の言葉でつかんできたからです。「浮き彫りにしており」が出てきたときの、あの白々しい感じ。「〜と言えるでしょう」で締められたときの、誰の意見でもない宙に浮いた感触。あれを自分の中で「これは違うな」と判定できるようになるまでには、多くの時間とAI文章の読書量が必要でした。
その判定基準を言語化できた指示書を使うことで、文章の生成をAIに任せた結果が、修正は入るものの納得のいく結果になっています。NGの文章でも、どこをどう直せばいいかも見えます。手を動かす時間は減っても、判断の精度は落ちていません。むしろ研ぎ澄まされている実感があります。
これが、自分でつかんだ本質を元に効率化を組んだときの感覚です。
「ツール作り」には残り香がある
このブログでも発表している自作ツール。ツール作りも、まあまあ肚に落ちている部類です。
私は元々、エンジニアの端くれだった時期があります。データベースの設計をしたり、プログラムを書くのが本職だった頃の感覚は、もう現役のものではないけれど、残り香として残っています。AIにコードを書かせるとき、そのコードが何をしているかは、おおよそ読めます。動かなかったときに「ここを直して」と指示できるくらいには、まだ感覚が生きています。
だから、ブラウザ上で動くちょっとしたツールをAIに書かせて公開するとき、私はその中身を完全には理解していなくても、輪郭はつかんでいます。「JavaScriptでファイルを読み込んで、Canvasに描画して、ダウンロードさせている」くらいの解像度はあります。本質を完全につかんでいる、とまでは言えなくても、欠片くらいはつかんでいます。
この「欠片くらい」というのが、案外重要なのかもしれないと、最近思っています。完全な理解と完全な無理解の中間で、自分が何を捨てて何を残しているかが見えている状態。これがあるから、AIが書いたコードを読んで「なんかこれ、変なことしてるな」と気づけます。
肚に落ちないまま進めている作業
問題は、それ以外の作業です。
具体的に何、とはここでは書きません。書こうとすると、自分の中で「ああ、それは別に効率化しなくていいんじゃないか」という疑念が立ち上がってきて、そもそも書きたい内容がズレていきそうな気がするからです。ただ、自分の作業リストを眺めていると、はっきりと「これは肚に落ちないまま進めている」と分かるものがいくつかあります。
肚に落ちないまま進めている作業には、共通する感触があります。
ひとつは、アウトプットに対する漠然とした不安が、いつまでも消えないこと。AIに任せて出てきたものを公開した後も、「これでよかったんだろうか」という落ち着かなさが残ります。判定基準を自分が持っていないから、出てきたものを評価できないんです。意にそぐわずスピードだけを求められた作業など、AIを使って手早くアウトプットはしますけれど、「これじゃない」感がずっと残ったものになっているんですね。
もうひとつは、良いものができたという満足感が、ほとんど湧かないこと。時間は短縮できました。アウトプットも出ました。でも、自分が何かをつくった実感がありません。ただ通過したような感じだけが残ります。
この「不安の大きさ」と「満足度の小ささ」が同居している作業は、たぶん全部、私が本質をつかみ切れていない領域なのだと思っています。
落語と、コスパ・タイパが通じない世界
『あかね噺』を読んでいて思うのは、落語家の修業というのは、徹底的にコスパ・タイパが通じない世界だ、ということです。第3巻にも、こんな描写があります。

ある落語会の演目として、師匠があかねに「寿限無」を話すよう指示しました。その説明の中で師匠は、あかねの筋の良さを「俺が教えた事はすぐモノにしちまった」と誉めますが、それは決して登場人物の心情に寄り添った意識がないままこなせてしまっている、ということでした。
そこで、登場人物になりきって心情を理解する「了見」を学んで欲しいと厳しい条件を課していたのです。
噺家は、座布団の上に座って、扇子と手ぬぐいだけで、ひとりで何人もの登場人物を演じ分けます。背景もなければ、効果音もない。声と目線と間だけで、聴き手の頭の中に長屋を建て、酒場を開き、夫婦を住まわせるわけです。それを成立させるために、前座から二ツ目、真打に至るまで、何年もかけて噺を体に入れていきます。同じ演目を何百回と高座にかけ、師匠に叱られ、客の反応を見ながら、少しずつ自分のものにしていきます。
この修業の時間は、短縮できません。本を読んで「分かった」では肚に落ちないからです。実際に高座に上がって、滑って、汗をかいて、客の顔を覚えて、はじめて「この間で笑いが取れるのか」とか「この目線で時間が動くのか」が、自分の体に入ってきます。この成長の過程を、ジャンプマンガらしく、努力や友情・勝利を絡めながら見せているのが本作の面白いところなんですけれどね。
一生があかねに「人は自ら掴んだ本質しか肚には落ちない」と言ったのは、そういう世界で生きてきた人の言葉なのだと思います。鵜呑みにしてきれいに整えた噺は、高座では通用しない。客は瞬時に見抜く。だから、自分でつかむまで時間をかける以外に、道がないわけです。
この感覚は、書く仕事にもそのまま重なります。
書き手が文章を書くというのは、本来、噺家が一席を成り立たせるのと似た作業です。誰のために、何を、どういう順序で、どの言葉で伝えるか。これを決めるとき、書き手は自分の中にしまってある経験や読書や違和感の蓄積から、ひとつずつ取り出してきます。その蓄積は、コスパ・タイパで作られたものではありません。何年もかけて、肚に落としてきたものです。
AIに任せられるのは、その蓄積を持っている人が、最後の仕上げや手数の多い部分を効率化するときだけだと思っています。蓄積がないままAIに任せると、出てくるのは、誰でも書けるそれっぽい文章です。客に瞬時に見抜かれる文章。
鵜呑みにすることの怖さ
ここで一生のセリフに戻ります。
"そういうもの"と鵜呑みにして、分かった気になり本質を逸する
これを読んだとき、脇の下を冷や汗がしたたり落ちるような感触がしました。AIから出てきたものを「まあ、こういうものだろう」と受け取って、自分の名前で出している瞬間が、私の中にも確かにあるからです。
たとえば、AIが整えてくれた構成案。たとえば、AIが書き換えてくれた言い回し。対して検討もせずに「うん、いいんじゃない」と受け取るとき、私はその構成や言い回しの本質を、本当に自分でつかんでいるでしょうか。
つかめていないまま採用した部分は、後から自分で説明できません。「なぜこの構成にしたんですか?」と聞かれて、「AIがそう提案したからです」としか答えられなくなります。これはまずい。書き手として、編集者として、まずい兆候だと思います。
違和感を持てるうちは、まだ大丈夫
ただ、ひとつだけ救いに感じていることがあります。
「これは肚に落ちていない」という違和感を、自分が持てているうちは、まだAIに使われる側にはなっていない、ということです。
AIに使われている人というのは、たぶん、出てきたものに違和感を持つ感度自体を失った人のことです。AIが整えた言葉を「自分の言葉」として疑いなく出力できてしまう人。出てきた構成を「自分が考えた構成」として説明できてしまう人。こうなると、本質を逸したことにすら気づきません。そして実態は、依頼者とAIの間を飛んで回っている伝書鳩に他なりません。
私の場合、不安と満足度の小ささが残っています。これはネガティブな感情だけれど、「自分はまだここを掴めていない」という自分への警告が機能している証拠でもあります。この警告音が鳴っているうちは、戻る道があります。
短縮すべきでない作業もある
クライアントワークにおいては、常に理想と現実の狭間でどう作業をするか、悩まされます。締切りのない自分だけの作業であれば、いくらでも時間がかけられたり、逆に「これでいいや」と線を引いたりできるんですけれどね。
効率化は手段であって目的ではない、というのはよく言われる話です。でも実際にAIを使い始めると、「短縮できるなら短縮したい」という引力が働き始めるんですよね。時間が浮けば、別の仕事に回せる時間が増えます。仕事が増えれば収入も増える、という単純な計算式。引力は強いです。
その引力に乗って肚に落ちないまま効率化を進めると、最終的に「自分が何をやっている人間なのか」が分からなくなる気がします。手元に残るのは、判定できないアウトプットの山と、漠然とした不安と、説明できない自分の仕事です。
だから理想的には、肚に落ちない作業については、いったん止まったほうがいいと思っています。短縮するための効率化ではなく、本質をつかむための時間として使い直す、という発想の転換が必要です。本を読み直したり、先輩の仕事を見直したり、手で書いてみたり。AIには触らせない期間を、意図的に作ってみるのもありかもしれません。
コスパ・タイパで切り捨てた工程の中にこそ、本質が住んでいるんだと思います。
自分への問い
いつも、自分に問い直していることがあります。
いまAIに任せている作業のうち、どれが「自分でつかんだ本質を元にした効率化」で、どれが「鵜呑みのまま進めている効率化」か。
前者は続けていいと思います。後者は、おおいに考え、悩まなければならない領域でしょう。あるいは、本質をつかむ作業を別途やり直す必要があります。
リスト化してみると、たぶん「鵜呑みのまま進めている」作業は思っていたより多いはずです。それを正直に認めるところから、自分の仕事を見直さなければなりません。AI時代に必要になってきた棚卸し作業なんじゃないですかね。
肚に落ちないまま進めることの、漠然とした不安。これを「効率化のコスト」として割り切るのではなく、「いま自分が本質を逸している」というシグナルとして受け取ろうと思います。
阿良川一生は、ワイングラスを片手に、あかねにこう言いました。本質を説き、道筋を示せ、と。AIにそれをやってもらうのではなく、自分でつかんで、自分の道筋として残していきたい。それができる範囲だけを、自分の仕事と呼んでいいのだと思っています。


